令和6年4月度 御報恩御講 「諌暁八幡抄」
弘安3(1280)年12月 聖寿59歳
「今日蓮(にちれん)が去(い)ぬる建長五年癸丑(みずのとうし)四月廿八日(にじゅうはちにち)より、今弘安三年太歳(たいさい)庚辰(かのえたつ)十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計(ばか)りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。」
(御書792㌻13行目~793㌻2行目)
【通釈】
今日蓮は、去る建長五年癸丑(みずのとうし)四月二十八日より、今、弘安三年太歳庚辰(かのえたつ)十二月にいたるまで二十八年の間、また他事はなく、ただ妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に唱えさせようと励むばかりである。これはすなわち母親が赤子の口に乳を含ませようと励む慈悲(と同じ)である。
【拝読のポイント】
〇折伏こそが真の慈悲行
本日拝読の御文に「母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」とあるように、大聖人が諸難に敢然と立ち向かい、折伏を行じて人々を救済しようと励まれたのは、ひとえに親が我が子を守り育てようとする大慈悲心によるものです。
私達の仏道修行には自行と化他行があり、折伏は他者を教化する化他行です。化他について、総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に「自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり」(御書文段二一九)と指南されています。
大聖人が、宗教の正邪によって人々の幸・不幸、成仏・不成仏が決すると教示されているのですから、私達は慈悲心を旺盛に、心から相手の幸せと成仏を願い、不幸の根源である謗法の恐ろしさを教えるべきです。そのような振る舞い、人々を正法に導き帰依せしめていく折伏こそが、真の慈悲行となるのです。
〇〝正直〟の南無妙法蓮華経を〝正直〟に実践する
本抄に「八幡の御誓願に云はく『正直の人の頂を以て栖と為し(下略)』」(御書一五四二)とあるように、八幡大菩薩は本来、正直な人の頭に宿り、その人を守護するとされます。
この「正直」ということについて、大聖人は『法門申さるべき様の事』に「法華経計りこそ正直の御経」(同四三四)、『下山御消息』に「経々宗々を抛ちて、一向に法華経を行ずるが真の正直の行者にては候なり」(同一一三九)と仰せられています。つまり、法華経こそ方便を一切帯びない真実の教え、正直の教えであり、また一切の謗法を捨てて、法華経のみを信じ行ずる者こそ「正直の人」に他ならず、諸天の加護を受けることができるのです。
末法において信じ行ずる法華経とは、大聖人の説かれた寿量文底下種の南無妙法蓮華経であることはご承知のとおりです。『御義口伝』に「今末法にして正直の一道を弘むる者は日蓮等の類に非ずや」(同一七三三)とあります。身延日蓮宗をはじめ題目を唱える教団が多いなか、私達本宗僧俗だけが「正直の一道」である本門戒壇の大御本尊への信心を正しく弘める使命があるのです。世上混乱の今こそ、正直の教えを正直に実践し、広布に向かって大前進してまいろうではありませんか。
〇 日如上人御指南
折伏を行ずるに当たって大事なことは種々説かれておりますが、その根本となるものは慈悲であります(中略)御本仏の広大深遠なる大慈大悲を我が身に移し、一途に相手の幸せを願う一念に徹して励むことが肝要であります。この一念がないと「慈無くして詐(いつわ)り親しむは彼が怨なり」の譏(そし)りを受けることになります。(大白法・平成二十二年一月一日号)
■ まとめ
「折伏前進の年」も早三カ月半、今月は立宗会の月でもあります。
宗旨建立以来、〝一切衆生の口に妙法を入れる〟という大聖人の大慈大悲のお振る舞いを拝し、私達も一人でも多くの人に、この妙法を唱えさせるべく折伏に立ち上がりましょう。
そして諸天の加護のもと、あらゆる障魔に打ち勝ち必ず誓願を成就していく、これを強く決意いたしましょう。
以上
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