令和6年10月度 御報恩御講「妙法比丘尼御返事」
令和6年10月度 御報恩御講 拝読御書
妙法比丘尼御返事(みょうほうびくにごへんじ) 弘安元(1278)年9月6日 聖寿57歳
「仏法の中には仏いまし(誡)めて云はく、法華経のかたきを見て世をはゞかり恐れて申さずば釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし。譬(たと)へば父母(ふも)を人の殺さんとせんを子の身として父母にしらせず、王をあやま(過)ち奉(たてまつ)らんとする人のあらむを、臣下の身として知りながら代をおそれて申さゞらんがごとしなんど禁(いましめ)められて候。」
(平成新編日蓮大聖人御書1262㌻17行目~1263㌻3行目)
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〔背景〕
本抄は、弘安元(1278)年9月6日、日蓮大聖人様御年57歳の時、身延から妙法比丘尼に与えられたお手紙です。
妙法比丘尼についての詳細は不明ですが、駿河国岡宮(静岡県沼津市)周辺に住んでいた女性信徒と考えられています。
当御消息は、妙法比丘尼が兄嫁より託された帷子(かたびら・裏地の無い単衣の着物)を大聖人様へ御供養申し上げたこと。妙法比丘尼の兄・尾張次郎兵衛の逝去を報告したことに対する御返書です。冒頭、帷子の御供養に対して、過去の仏道修行者が重病に苦しむ聖人を看病するとともに、衣を供養した因縁とその功徳を示し、この度の御供養にも絶大な功徳が存することを仰せられています。
続いて、当時の仏教各宗派は、すべて謗法となっている実態を指摘されます。そして、大聖人様がその謗法を破折されたことにより、種々の大難に遭われていることは、御自身こそ真の法華経の行者である何よりの証左であり、その値い難き行者に出値い、尊い御供養をした二人の福徳は計り知れない旨を示されています。一方、生前、兄・次郎兵衛は念仏信仰を捨てきれなかったことにより後生を案じつつ、「いかに信ずるやうなれども、法華経の御かたきにも知れ知らざれ、まじはりぬれば無間地獄は疑ひなし」(御書1269)と、これ以降も謗法と親近することがないよう誡められます。そして最後に、兄・次郎兵衛を失った妙法比丘尼への弔意を示されて本抄を結ばれています。
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【御文拝読】
仏法の中には仏いまし(誡)めて云はく、法華経のかたきを見て世をはゞかり恐れて申さずば釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし。
〔語句の解説〕
・法華経のかたき…法華経の教えに敵対する教え、そしてそれを信仰する者。
・無間地獄…阿鼻地獄とも言い、五逆罪(※)や謗法罪を犯した者が堕ちる地獄で、絶え間なく大苦悩を受ける最下の境界。
(※)五逆罪…①殺母(しいも・母を殺す)、②殺父(しいふ・父を殺す)、③殺阿羅漢(しいあらかん・僧侶を殺す)、④出仏身血(しゅつぶつしんけつ・仏様の身から血を出す)、⑤破和合僧(はわごうそう・正法の信仰者の輪を乱す)
〔通釈〕
仏法のなかに仏が誡めて言われるには、法華経の敵(かたき)を見ながら、世をはばかり恐れて(謗法を)指摘しない人は釈迦仏の御敵(おんかたき)となり、いかなる智人、善人であっても、必ず無間地獄に堕ちることになろう。
〔解釈〕
ここでは、謗法を見て知りながらも、そのままにして折伏しない者は、謗法の者だけでなく、折伏をしないその人自体も仏様の敵(かたき)となり、更には謗法者同様に無間地獄に堕ちてしまうと仰せられています。
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【御文拝読】
譬(たと)へば父母(ふも)を人の殺さんとせんを子の身として父母にしらせず、王をあやま(過)ち奉(たてまつ)らんとする人のあらむを、臣下の身として知りながら代をおそれて申さゞらんがごとしなんど禁(いましめ)められて候。
〔通 釈〕
譬えば、父母を殺そうとしている者がいることを、子の身として父母に知らせなかったり、王を殺そうとする者がいることを、臣下の身として知りながら代(だい)を恐れて伝えないようなものであると、禁(いまし)められている。
〔解 釈〕
ここでは、謗法者が居るのを知りながら折伏をしない者の折伏をしない例え(心)を①父母を殺そうとする者が居るのを子供が知りながらも父母に知らせない。②王様を殺そうとする者が居るのを臣下が知りながら王様に報せない。如く恩に報いる行為である旨、仰せられています。
【御妙判を拝して】
拝読の御妙判は、①謗法者は必ず無間地獄に堕ちてしまう。②謗法者を折伏しない者の罰。の旨が御教示されています。謗法とは「法を謗る」ということであり、法とは仏様の究極の真実・妙法蓮華経=法華経です。妙法蓮華経=法華経を謗ることが謗法に当たります。この謗法について大聖人様は、「謗法と申す罪をば、我らもしらず人も失(とが)とも思はず。但仏法をならへば貴(たっと)しとのみ思ひて候」(御書1258㌻)と仰せられています。則ち、①法華経を謗ることをしりながら法華経以外の信仰をする者。②謗法の意味を知らずに謗法の教えを信仰する者。③無宗教の者。が謗法に当たると示されています。謗法の者は、知る知らざるは別として、死した後に必ず無間地獄に堕ちてしまいます、否や、生きる今も謗法の罪により、目先の幸せを得ていると見えていても、真実の幸せは絶対に得ることはできず、そして徐々にその害毒によって苦しみの世界へと堕ちて行ってしまうのです。この謗法者の罪を我ら日蓮正宗の僧俗は知っています。その上で、謗法者が苦しむ姿・苦しむ道へと堕ちることを知りながら、折伏をしない行為を日如上人は「無慈悲の極み」と仰せられています。また日如上人は「我々は邪義邪宗の謗法の害毒によって多くの人が苦しんでいるのを見て、それを黙過せず、一刻も早く大聖人様の正しい教えに導くべく、決然として折伏を行じていくことが、いかに大事」(大日蓮・令和6年8月号)であると御指南されています。
もし謗法者を折伏しなければ、謗法者が受ける無間地獄に同様の罪(与同罪)として堕ちてしまうともご教示されています。大聖人様は「仏禁(いましめ)て言はく、何(いか)なる持戒智慧高く御坐して、一切経並びに法華経を進退せる人なりとも、法華経の敵(かたき)を見て、責め罵り国主にも申さず、人を恐れて黙止するならば、必ず無間地獄に堕つべし。譬えば我は謀叛を発(お)こさねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪は彼の謀叛の者の如し」(秋元御書1453㌻6~9行目)と、本日拝読の御妙判と同様な御教示を仰せられています。また総本山第二祖日興上人『日興遺戒置文(にっこういかいおきもん)』の中で「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」(御書1885㌻7行目)と、弟子檀那に御遺戒(ごゆいかい)されています。大聖人様は「法華経の敵をみながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひんかるべし」(曾谷殿御返事1040㌻1~2行目)と、成仏ができる大聖人様の信心をしていても信心をしていない者が居るのを知りながら、そのままにして折伏をしない僧俗は、謗法者の罪と同様(与同罪)に無間地獄に堕ちてしまうと仰せられています。
また大聖人様は「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるが如くなるべし。はかなしはかなし。何(いか)に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし」(曾谷殿御返事1040㌻2~4行目)とも御教示されて、謗法者が無間地獄に堕ちることを知りながらも折伏をせず、自分だけが成仏を願う者は、その行為は例えば火の中に水を求めるように、水の中に火を探すようなものであり、空しい行為であると仰せられ、改めて信心をしていても謗法者を折伏しない者は地獄に堕ちると御教示されています。
我々は、本日拝読の『妙法比丘尼御返事』また引用した『秋元御書』並びに『曾谷殿御返事』の御教示を改めて拝しなおし、これらの御指南を常に心に刻み置き、謗法の中に生きる多くの方々に折伏を行じるよう精一杯努めていきましょう。今月第二日曜の御報恩御講日は10月13日と御本仏宗祖日蓮大聖人様の御正当会の日です。言うまでもなく大聖人様は「『立正安国論』に初まり『立正安国論』に終わる」と称されます、則ち、『立正安国論』とは大折伏書でありますから、言い換えれば「大聖人様とは、折伏に初まり折伏に終わる」となります。我ら大聖人様の信心をする令和の僧俗は、できるできないを考えるのではなく、『全力で折伏に努める信心』を心肝に染めて努めることこそ肝要であることを改めて本日10月13日のこの日を期に御本尊様にお誓い申し上げらで、僧俗一致・異体同心して残り二ヶ月半を精一杯励行していきましょう。
以上
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