令和7年11月度 13日御講 拝読御書
南条兵衛七郎殿御書
文永元(1264)年12月13日 聖寿43歳
「貪瞋痴(とんじんち)きわめてあつ(厚)く、十悪は日々にをか(犯)し、五逆をばおかさゞれども五逆に似たる罪又日々におかす。又十悪五逆にすぎたる謗法は人ごとにこれあり。させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども、人ごとに法華経をばもち(用)ゐず。又もちゐたる様なれども念仏等の様には信心ふか(深)からず。信心ふかき者も法華経のかた(敵)きをばせ(責)めず。いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たるひとなりとも、法華経のかた(敵)きをだにもせめざれば得道ありがたし。」
(平成新編日蓮大聖人御書 322㌻15行目〜323㌻1行目)
【背景・概要】
文永元(1264)年11月11日、大聖人様は安房東条郷の小松原で東条景信等に襲撃され、右の額に疵(きず)を負い、左手を骨折された小松原法難に遭われ、その傷も癒えない中、南条兵衛七郎殿の重病を聞かれた大聖人様は、南条兵衛七郎殿及びその家族を心配され著されたのが本抄です。
内容は、先ず兵衛七郎殿の病気を慰労され、そうした時こそ信心強盛にし、念仏信仰の親族が心配し、念仏を唱えるよう勧められてもけっして唱えることのないよう誡められています。
また全体にわたって宗教の五網(教・機・時・国・教法流布の前後)が説かれ、末法時代の衆生は法華経によって成仏が叶う機根であり、また日本国は法華経有縁の国であり、故に念仏は捨てるべきであると仰せられています。
拝読御文では、五逆・十悪等の罪および法華誹謗の大罪をよく知り、その上で法華経の敵を呵責(かしゃく)すること、すなわち破邪顕正の折伏を実践する大事を仰せられています。
【語句の解説】
・貪瞋痴(とんじんち)…貪りと瞋(いか)りと愚痴という根本的な三つの煩悩で、これらは一切の煩悩の根源であるゆえに三根ともいう。また毒蛇などの持つ毒のように命を害することから三毒ともいう。
・十悪…殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴の十を言い、これらは理に背いて起こることから悪と名付け、また苦報の業因であることから十悪業、十不善業とも言う。
・五逆…殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五大罪。この五つは罪悪の極みで、理に逆らうことが著しいので逆と言い、無間地獄の苦果を感ずる悪業であることから無間業とも言う。
・謗法…誹謗正法の略で、正しい法(教え)に随わず背くこと。
・一念三千…衆生の一念(一瞬)に三千の諸法が具足していることを天台大師が『摩訶止観』で示した。その構成は、一念(一瞬)の生命に十界(仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界・天上界・人界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)が具(そな)わり、その十界にまた十界が具わって百界となる。その百界に十如是(如是相・如是性・如是体・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究境等)が具わって千如是となり、その千如是に三世間(衆生世間・五陰世間・国土世間)が具わって三千世間となる。
【通釈】
貪欲・瞋恚・愚痴は極めて厚く、十悪を日々に犯し、五逆罪は造らなくとも五逆に似た罪は日々に犯している。
また、十悪や五逆の罪を超える重い謗法罪は、誰もが犯している。直接の言葉で法華経を誹謗する人は少ないけれども、人々は法華経を受持しない。また(法華経に)帰依しているようでも、念仏等を信仰するようには信心は深くない。信心が深い者でも、法華経の敵を責めることはない。どれほどの大善を作り、法華経を千万部書写したり、また一念三千の観心境界に達したような人でも、法華経の敵である謗法を呵責(折伏)しなければ成仏はあり得ない。
【御妙判を拝して】
拝読の御妙判では、(一)末法時代の衆生の生命。(二)信心姿勢。(三)折伏をしなければ成仏は無い。と、まだ入信して間もなく、更に重病にあった南条兵衛七郎殿に説かれています。
(一)末法時代の衆生の生命とは、貪瞋痴の三毒を犯し、また十悪・五逆を犯し、更に謗法を犯す命であると明かされています。この生命は、成仏は叶わず地獄に堕ちる生命です。
(二)信心姿勢とは、(1)信心をしていても念仏信仰ほどの熱心さはない。(2)熱心であっても折伏をしない。
(三)折伏をしなければ成仏は無いとは、法華経を千万部書写したり、法華経の大意である一念三千の訪問を究めた人であっても、それらはすべて自分自身の信心(自行)であり、折伏である化他行をしない信心では成仏得道の大願を得ることはできない。と御教示されています。
まして兵衛七郎殿の重病のなかにあり、それでも、成仏を得るためには信心強盛(自行)に折伏(化他行)に励むことの大事を仰せられています。
大聖人様は『可延定業御書』の中で「業に二あり。一には定業、二には不定業。定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。何(いか)に況(いわん)や不定業をや」(御書760㌻)と、業に定業(定まった業)と不定業(定まっていない業)があり、定業は自身の謗法を懺悔すれば消滅することができる。しかし不定業は消滅することが難しいと仰せられています。
これは、定業は「定まった業」であるため、「定まった」ことを消滅できる可能性がありますが、しかし不定業の場合「定まっていない業」のため業がどのように出るかが判りません。しかし宿業転換と説かれるように、定まっていない業を転換することは強盛な信心があれば可能です。
謗法者が居ることを知りながら折伏をしない。自分が謗法行為をしているわけではないから謗法罪にはならないだろう。だから謗法者を見過ごして折伏をしない者を大聖人様は「朝廷に仕える人が十年、二十年と長い間奉公しても、主君の敵を知りながら公に奏上せず、個人的にも敵視しなければ、長年の方向の功績は皆消え失せて、かえって怠慢の者として罰せられる」(趣意・御書323㌻)と、主君からの信頼を失うだけではなく、無奉公者であり、更には謗法を認めたことと同罪となり、謗法の与同罪(よどうざい)は免れないと仰せられています。
日寛上人は「常に心に折伏を忘れて四箇の名言(みょうごん)を思わなければ、心が謗法になるのである。口に折伏を言わなければ、口が謗法と同じになる。手に数珠を以って本尊に向かわなければ、身が謗法と等しくなるのである」(趣意・御書文段608㌻)と仰せられています。信心強盛の皆さんには本日の御指南を胸に刻み、平生努められ、更には病気になったときこそ、気が弱くなったときこそ、一層の信心を奮い起こし、化他行たる育成・折伏に精一杯努力していきましょう。
以上
0コメント