令和8年5月度 御報恩御講 拝読御書
秋元御書(あきもとごしょ)(異称・筒御器抄(つつごきしょう))
弘安3(1280)年1月27日 聖寿59歳
器に四(よ)つの失(とが)あり。一には覆(ふく)と申してうつぶけるなり。又はくつがへす、又は蓋をおほふなり。二には漏(ろ)と申して水もるなり。三には汗(う)と申してけがれたるなり。水浄(きよ)けれども糞(ふん)の入りたる器の水をば用ふる事なし。四には雑(ぞう)なり。飯(はん)に或は糞(ふん)、或は石、或は沙(すな)、或は土なんどを雑(まじ)へぬれば人食らふ事なし。器は我等(われら)が 身心を表はす。我等が心は器の如し。口も器、耳も器なり。
(御書1447㌻5〜8行目)
【背景・概要】
本抄は、弘安3(1280)年1月27日、日蓮大聖人様御年59歳の時、身延(みのぶ)から、下総国印旛郡(千葉県)に住む秋元太郎兵衛尉に与えられたお手紙です。筒型の器(筒御器(つつごき))や蓋の御供養に対する返書であり、「筒御器抄(つつごきしょう)」との異称があります。秋元氏は富木常忍(ときじょうにん)の親戚筋とも言われ、太田乗明(おおたじょうみょう)等とも親交があった と言われます。本抄では、最初に器の御供養への感謝を述べられます。
次に、拝読の御文は器の四失(ししつ)を説いて、兵衛尉(びょうえじょう)に我見や謗法に陥ることなく信心を全うするよう御指南されます。
続いて、念仏無間(ねんぶつむけん)・禅天魔(ぜんてんま)・真言亡国(しんごんぼうこく)・律国賊(りつこくぞく)の「四箇(しか)の格言」をもって、念仏をはじめ諸宗の悪法を破折(はしゃく)した結果、これまで誰人も受けたことのない甚だしい怨嫉(おんしつ)を招いたことを明かされています。
さらに、謗法には謗人(ほうにん)・謗家(ほうけ)・謗国(ほうこく)の三義あること、謗法看過(かんか)すれば与同罪(よどうざい)は免れないことを説かれます。最後に、重ねて御供養への謝意を示し、本抄を結ばれています。
【語句の解説】
・四箇(しか)の格言・・・「念仏無間(念仏は無間地獄の業)・禅天魔(禅宗は天魔の所為)・真言亡国(真言は亡国の悪)・ 律国賊(律宗は国賊の妄説)」と四宗(念仏宗・禅宗・真言宗・律宗)の邪義を簡潔に破折した。
・謗人(ぼうにん)、謗家(ぼうけ)、謗国(ぼうこく)の三義・・・正法を誹謗する(謗法)の罪深さを謗人(人)、謗家(家族)、謗国(国)の三義
・覆、漏・汗、雑・・・覆う、漏れる、汚れる(汗=汚)、雑じるという器の四種の状態のことで「器の四失」「破器の四失」ともいう。転じて、仏道修行妨げとなる衆生の状態や性分を表したもの。
【通釈】
器には四つの欠陥がある。一つ目は「覆」といって伏せること。または逆さにする、または蓋を覆うこと。二つ目は「漏」といって水が漏れること。三つ目は「汗」といって汚れること。水がきれいいでも糞の入った器の水を使うことはできない。四つ目は「雑」。飯にあるいは糞、あるいは石や砂、土などを混ぜたならば人が食べることはできない。
器は私達の身心を表している。私達の心は器のようであり、口も器、耳も器である。
【御妙判を拝して】
今月の御妙判では、我々の身心(身体)を器に例えられ、また信心にもその器が当てはまるとを御指南されています。
信心における器とは、一、覆(器に蓋を覆うことで、耳を塞いで仏様の教えを聞かない・心に入れない)。二、漏(器が欠けて水が漏れることで、悪縁に値(あ)って信心が次第に薄れ仏道修行を怠ける。三、汗(汚(汗(かん))い器に注いだ水を飲むことができないように、我見や慢心によって仏様の教えを汚(けが)してしまい功徳を失う)。四、雑(器に入った御飯に石や砂を混ぜてしまうように、謗法を容認したり、ある時は南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱え、ある時は南無阿弥陀仏と唱え、正法と謗法を混ぜてしまう)との四つの失(とが)(欠陥)があると仰せられ ています。
しかし大聖人様は「此の覆(ふく)・漏(ろ)・汗(かん)・雑(ぞう)の四つの失(とが)を離れて候器をば完器と申してまた(完)き器なり」(秋元御書1448㌻)と、覆(ふく)・漏(ろ)・汗(かん)・雑(ぞう)の失(とが)を離れた器すなわち完器の信心を目指して、日々励行することが大事です。
では、どうしたら完器の器を得られるのでしょうか?
そもそも欠陥のある器とは、自らが起こす我見が起こすものです。我見とは、「解っていないのに解っている見方・考え方」を言います。「知ったかぶり」とも言えます。この我見に陥らないよう注意して過ごせば、我見に陥らない可能性もありますが、しかし我見は魔の用(はたら)きとも考えられます。結局のところ我見に陥らないことは非常に難しいものです。
しかし幸いにして我々は正法の信心をしているため、大聖人の教えを正直に励行していけば、知らず知らずのうちに我見に陥らない道を歩むことができています。
また大聖人様は、この我見に注意すると共に謗法(謗身(自分自身が謗法を犯す)・謗家(謗法の家に生まれ合わせる)・謗国(謗法者の住む国土に生まれ合わせる))にも陥らないよう注意されています。この内、謗身は、折伏を受ければ無くなりますが、謗家・謗国は前世の因縁がありますから無くすことはできません。
我々は、自分自身が来世に謗家・謗国との謗法に縁しないよう努めると同時に、未だ謗身・謗家・謗国の中にいる人に対し、そこから逃れられるよう折伏を励行することが、その人のためであり、且つ自分自身が来世に謗家・謗国に縁しない方法だと心得て励行することが肝要です。この謗法者を知りながら折伏をしない人はどの罪になるのか?
大聖人様は、無慈悲の人であり、且つ自らが謗法を犯していなくても謗法者同様の罪(謗法与同罪(ほうぼうよどうざい))となると教えられています。
我見や謗法は魔の用きです。魔の用きは魔が起こしていると知る事は非常に難しいものです。しかし、日々大聖人様の教え・御法主上人猊下の御指南を意識して、そして正直に仏道修行に励行していくことにより、御本尊様の御仏智・功徳によって魔の用きから逃れつつ生活を送ることができ、功徳に浴した一生を送ることが叶えられます。
正直に仏道修行に励行するために、大聖人様の教えを学ぶことができる毎月の御報恩御講に講員同士が声を掛け合い参列し、日々の寺院での唱題行に進んで参加していくことがその修行方法です。
信心とは、誰のために行うものではありません。自らのために、自分自身のために行うものが信心です。また御仏智も誰かから得るものではなく、自分自身が行ってはじめら得られるものです。
大聖人様の信心とは、一 生成仏が叶えられる信心です。拝読御妙判を胸に刻み、そして罪障消滅・変毒為薬(へんどくいやく)を得られるよう正直に仏道修行に励行していきましょう。
以上
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