令和5年2月度 御報恩御講 住職法話
『持妙法華問答抄』
「只須(すべから)く汝仏にならんと思わば、慢(まん)の幢(はたほこ)をたをし、忿(いか)りの杖をすてて偏(ひとえ)に一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだし(継)なり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。」(御書296㌻1~3行目)
本抄は、弘長3(1263)年、日蓮大聖人が42歳の御時、伊豆配流赦免後に鎌倉において著された書です。
松葉ヶ谷の法難(文永元年・1260年8月27日。念仏者達が松葉ヶ谷草庵を襲撃した法難。大聖人様は諸天の加護により命を守られた)の後、大聖人様は一時、上総若宮の富木常忍邸を拠点に弘教を展開されていましたが、弘長元年(1261)の春、再び鎌倉に戻られました。
これを知った鎌倉幕府は、ただちに大聖人様を召し捕え、何の取り調べもせず、伊豆の伊東へ配流しました。もちろん、その配流は、北条重時・長時親子と念仏宗僧俗の策謀によるもので、まったくの冤罪でした。ですからこの時、大聖人様は、「理不尽に伊豆国へ流し給ひぬ。されば極楽寺殿と長時と彼の一門ほろぶるを各々御覧あるべし」(妙法比丘尼御返事1263㌻)と御指摘されました。
この御言葉どおり、極楽寺重時は、大聖人様を配流した翌月、病に倒れ、やがて狂死しました。前執権・北条時頼は、この重時の死を深刻に受けとめ、また無実の大聖人様を罰したことに気づき、弘長3(1263)年2月22日に赦免の措置を講じたのです。
こうして大聖人様は、1年9ヵ月ぶりに鎌倉の草庵にもどられました。しかし、伊豆の御配流中にいだかれた、「法華経の故にかかる身となりて候へば、(中略)人間に生を受けてこれほどの悦びは何事か候べき」(四恩抄266㌻)とのお悦びと、「信心を起こし、身より汗を流し、両眼より涙を流す事雨の如し」(四恩抄269㌻)との、一切衆生を思う大慈大悲は、大聖人様の御胸中でますます燃え盛っていました。本書は、この頃認められたものと拝察されます。
『持妙法華問答抄』との題号が示すように、「法華経を持つこと」について、5つの問答形式をもって述べられています。
大意は、①「成仏得道は諸経の中でも法華経に限る」こと、②その「実践修行として妙法受持の一行こそが重要である」ことを示されます。続いて、③「法華経及びその行者を誹謗する罪の重さ」を明かされ、④最後に「世俗の執着を離れ、ひたすら法華経を受持し、題目を唱え、成仏する」よう勧められています。
【御文拝読】
只須(すべから)く汝仏にならんと思わば、慢(まん)の幢(はたほこ)をたをし、忿(いか)りの杖をすてて偏(ひとえ)に一乗に帰すべし。
〔語句の解説〕
・慢のはたほこ…幢(はたほこ)とは、上部に小旗をつけた鉾のこと。ここでは権教(真実の教えに導き入れるために、方便として説き示す仮の教え)の者が、自ら悟りを得たと驕り高ぶる心(慢心)が高くそびえるさまを幢(はたほこ)に譬える。
・忿(いか)りの杖‥権教に執着する者が、法華経の行者による折伏を受けて生じる怒りの激しさを、相手を打ちたたく杖に譬えたもの。
・一乗…衆生を仏の境界に導く唯一の教えのこと。
〔通釈〕
あなたが仏になろうと思うならば、慢心のはたほこを倒し、忿りの杖を捨ててひとえに一仏乗(法華経)に帰依すべきである。
〔解釈〕
ここでは、我々の人として誕生した最大の大願である成仏を得たいと思うために、実行すべき大事をご指南されています。即ち慢心を捨て、邪義邪宗の教えに執着する心を捨て、唯仏様の御聖意たる妙法蓮華経の御本尊様に帰依し、仏道修行に励む事であると仰せられています。
【御文拝読】
名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだし(継)なり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。
〔語句の解説〕
・名聞名利…名誉と私利。また、それを貪る欲望のこと。
・我慢…煩悩の一つで、強い自我意識から起こる慢心のこと。また、自己を中心に物事を捉え他人を軽んずること。
・偏執…偏った見解に執着して他人の意見を受け付けないこと。
・ほだし(継)…鎖や枷(かせ)など、手足にかけて自由に動けないようにするもの。転じて、人の心身を束縛し、行動の妨げとなるもの。
〔通釈〕
名聞名利は今生のみの飾りであり、我慢や偏執は後生の手かせ足かせでしかない。ああ恥ずべきであり、恐るべきである。
〔解釈〕
ここでは、慢心し邪義邪宗の教えに執着することがいかに愚かなことであるかを御指南されています。即ち、慢心や執着とは、名聞名利・我慢偏執等、私利私欲の如く自らの智慧を過大に思い、人よりも自らが勝れていると思い違いをしている事が愚かであり、恥ずかしいものであり、それでは大願を果たせることはないと仰せられています。
【御妙判を拝して】
この御妙判は、我々が今生に人間として生まれ合わせた大願を成就するにはどうしたら、それを叶えられるか?を御示しになられた御妙判と拝します。即ち、「仏にならんと思わば、(中略)偏に一乗に帰すべし」との仰せがそれに当たると拝されます。一乗とは、「衆生を仏様の境界に導く唯一の教えのこと」であり、それは仏様の最高最善の究極の教えである妙法蓮華経が一乗の教えであります。その妙法蓮華経の教えに帰すこと、帰すとは、帰依信仰することであり、信心をするという事でありますから、妙法蓮華経の信心をすることにより、仏になれる=成仏得道たる大願を得る事ができると御示しになられているのです。
しかし人間とは、自己の私利私欲・名聞名利に執着し、更には他人より優位になりたい等の願望を持ち合わせた生命であります。この願望について、「名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだし(継)なり」と仰せられ、成仏得道の大願の足を引っ張る行為で「恥ずべし恥ずべし」と恥ずかしくも、また「恐るべし恐るべし」と大願をさせまいとする魔の所為でもあり、恐ろしいことでもあると仰せられています。
大聖人様は「仏になる道には我慢偏執の心なく、南無妙法蓮華経と唱え奉るべき者なり」(法華初心成仏抄1321㌻)と仰せられており、また「唯信心肝要なり」(持妙法華問答抄296㌻)とも仰せられて、名聞名利を執着せず、我慢偏執を捨てて、御本尊様に信心していくことが成仏得道の大願を得る道であると仰せられています。
また大聖人様は「持たるる法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄298㌻)とも仰せられて、第一番の教えたる妙法蓮華経を信心する人は、人の中でも第一番の信心をしているものであるとも示され、やはり信心に努めていくことが第一である旨、御示しになられています。更に大聖人様は本当に大願をえるための御教示を「須らく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(持妙法華問答抄299㌻)と仰せられています。
この御教示は言うまでもなく、自分だけが大願を果たすだけでなく、自分以外の人にも大願を果たせるよう折伏し、そして一緒に大願成就へ努めることにより、本当の大願成就が得られると御示しなのであります。御法主日如上人猊下も「今こそ私どもは、一人ひとりの幸せはもとより、全ての人々の幸せと真の世界平和実現を目指し、たとえいかなる障害やこんなんが惹起しようとも、講中一結・異体同心して唱題に励み、その功徳と歓喜をもって全力を傾注して折伏を実践し、もって今日の混沌とした窮状を救済し、真の仏国土実現を目指していかなければならない」(『大日蓮』令和4年12月号)と御指南されています。
自行化他の信心に励む時には、御法主上人の御指南に示されているように、「いかなる障害や困難が惹起」します。それに振り回されず、また負けずに努められる方法とは、「講中一結・異体同心して唱題」です。講中がこの『自行化他の信心』との同じ意識を持ち、それに向けて同じ心で唱題に努め、異体同心して実際に下種・折伏・育成に励む事により、折伏も勧誡も、そして育成も成就できると御法主上人は御示しなのであります。
以上
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