『臨終用心抄』
「臨終」とは、誰しもが必ず迎えなければならないものです。
その臨終に向け、どのような心構えを持つべきか…
本日は、総本山第二十六世日寛上人が、臨終の大慈とその心得を御指南された書をご紹介します。
【本文】
一、 祖判(そはん)三十二(十一)に云く、夫(そ)れ似(おもん)みれば日蓮幼少の時より仏法を学し候(そうらい)しが、念願すらく、人の寿命は無常也、出る気は入る気を待つ事なし。風の前の灯火(ともしび)尚(なお)譬(たとえ)にあらず、かしこ(賢)きもはかな(儚)きも老いたるも若きも定めなき習ひ也、されば先(ま)づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと云々。
[現代語訳]
一、『妙法尼御前御返事(みょうほうにあまごぜんごへんじ)』に次のように仰せられている。「思うに、私日蓮は幼いころから仏法を学んできたが、そこでこう念願する。『人の寿命というものは無常であり、吐く息は吸う息を待つことはなく、風前の灯火もなお単なる譬えではない。賢人も愚人も老人も若人も、いつ臨終を迎えるのか判らないのが定めなき世の常(習い)である。そのため、まず臨終のことを習って、その後に他のことを習うべきである』(御書1482趣意)
[御指南を拝して]
日蓮大聖人様が「されば先(ま)づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」と御教示であり、それは、我々が何時(いつ)臨終の時を迎えるか判らないためです。臨終が如何に大事か。また臨終を如何に迎えるのか。先ずは我々自身がその大事を学び、そしてその大事を家族・親族に伝え、信心する者がその大事の上に信心に励んでいくことが肝要です。
【本文】
一、 臨終の事を属鉱之期(ぞっこうのき)と曰(い)ふ事。
愚案二(六)に云く、臨終の事を属鉱之期(ぞっこうのき)と云(い)ふは鉱(こう)はわた(綿)也。臨終の時息が絶へるか絶へざるかを知らん為にわた(綿)のつみたるを鼻の口に当てて見るに息絶へるればわた(わた)がゆる(揺)がざる也云々。意を取(とっ)て思う可(べ)し。
[現代語訳]
一、 臨終の事を属鉱之期(ぞっこうのき)と言う事。
『見聞愚案記』(京都本満寺一二世一如院日重著)に次のようにある。「臨終の事を属鉱之期(ぞっこうのき)と言う理由は、鉱とは綿のことで、臨終の時、その人の息が絶えたか、また絶えていないかを知るために、綿を重ねたものを鼻の入り口に当てて見る。息絶えているのであれば綿が動かないのである」と。この意から属鉱之期(ぞっこうのき)と言うと思いなさい。
[御指南を拝して]
臨終を迎えているか(息絶えているか)、それともまだ迎えていないか(息絶えていないか)、を知る意(心得)として、臨終を迎えている者は、鼻の入り口に綿を当てて見れば、その綿が動かず、また迎えていない者は、その綿が動く。臨終の時(期)を綿(鉱)で知ることができることを属鉱之期(ぞっこうのき)と仰せられています。
以上
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