御経日(毎月1日) 住職法話 『臨終用心抄⑦』
『臨終用心抄』とは…総本山第二十六世日寛上人が臨終の大事とその心得えを御指南された書。
臨終の際、心が乱れないために用心すること②『断末魔の苦しみ』
【本文】
引きよせて むすべば柴の庵にて 解(わか)れば本の 野原なりけり
水は水 火は本の火に帰りけり 思ひしことよ すはさればこそ
水は水とは、水は本の水と云ふ心也、引きよせては先世の妄想也、よせられし物は地水火風(ちすいかふう)の四大(しだい)也。
死しても心法(しんぽう)に妄想の足の緒が付て亦結び合せて身を受くる也。此れを十二因縁の流転と云ふ也。一身の四大所成なる姿は堅湿ジュ(火+需)動とて骨肉かたまりたるは地大也、身は潤ひ有るは水大也、あたた(温)かなるは火大也、動くは風大(ふうだい)也、此の四が虚空を囲みまは(回)すが此の身也。
板柱等集まりて家を作る如く也。死後に身の凍るは火大の去る也、逗留(とうりゅう)有ればくさ(腐)るは地大去る故也、切れども血の出ざるは水大の去る故也、動かぬは風大去る故也。死ぬる苦しきは家を槌にてる頽(くすお)るが如く四大の板柱材木面々に取り離す故に苦しむ也、断末魔とは之れを云ふ。此の離散の五陰(ごおん)と云ふ如く離散の四大也。すはさればこそと読たる苦なり。驚きたる処なり。解れば本の野原と読るも解るが離散する事本のと云ふが法界の四大に帰りたる事也云々。是くの如く兼ねて覚悟すれば驚かざる也。驚く事無ければ心乱るべからず。
〔語句解説〕
・妄想…誤った考えをめぐらすこと。迷いの思考。
・十二因縁…無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死のことで、衆生の生命は、十二の因縁によって三世にわたって存在している。
◇無明…衆生が元々持っている無始(むし)以来の煩悩のこと。
◇行…その煩悩(無明)によって過去世に作った善悪の宿業のこと。
◇識…過去世の業によって、現在の母胎を定めて宿ること。
◇名色…身心が胎内で発育しはじめた状態のこと。
◇六入…胎内で六根(眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんい))が完成すること。
◇触…生まれたばかりで、分別がなく、単純な認識や感触作用を起こす状態のこと。
◇取…成人して、自分の欲するものを貪り求めること。
◇有…愛・取などの現在の因によって未来世の果が定まること。
◇生…未来世に生を受けること。
◇老死…未来世で老いて死ぬこと。
・四大…万物のもととなる地・水・火・風・空(地大・水大・火大・風大・空大)の元素のことで、人の身体はこの四大から成り立っているとされる。
・堅湿ジュ(火+需)動…四大のそれぞれの性質を表した言葉。堅は硬い、湿は濡れている、ジュ(火+需)は温かい、動は動くを性質とする意。
・五陰…色・受・想。行・識の五つで、この五陰が仮りに和合して衆生が成り立っているとされる。
・すはさればこそ…感歎詞「すわ」+「さればこそ」。「さればこそ」には予想が的中した際の『やっぱり』『思った通り』との意があるが、ここでは前の言葉に応える意味で、『そのことですよ』との意。
〔現代語訳〕
資材を集めて結べば、柴の庵となる。それを解けば、もとの野原になるのである。
水は水、火はもとの火に帰ったのである。と思っていたことは、そのことである。
詩中の「水は水」とは、水はもとのままの水と同じという心である。「引きよせて」は、先世における自身の妄想であり、集められている物は地水火風空の四大である。死してのちも、心法に妄想という足の緒(ヒモ)が付いて、またその緒が結び合わさって身となるのである。これを一二因縁の流転というのである。一身が四大によって形造られた物という姿は、堅湿ジュ(火+需)動と言って、骨肉が固まるのは地大、身に水分があるのは水大、体温があるのは火大、動くのは風大である。この四大が虚空を囲み回すのが身である。板や柱等が集まって家を作るようなものである。死後に身体が冷たくなるのは火大が去るためである。そのままにしておけば腐るのは地大が去るためである。遺体を切っても血が出ないのは水大が去るせいである。遺体が動かないのは風大が去るせいである。死ぬ苦しさは、家を槌で打ち壊すようなもので、四大の板柱等の木材をそれぞれ取り離す故に苦しむのである。断末魔とはこのことを言う。離散の五陰というように、(前述の四大は)離散の四大である。「すはさればこそ」と読むのは苦のことであり、いざ臨終の苦を受けて驚くところの思いである。
「解れば本の野原」と読むのも、解れば離散することを指し、「本の」というのは、法界の四大に帰ることなのである。このように、あらかじめ覚悟すれば、いざその時になって驚くことはない。驚くことがなければ、心が乱れることもない。
〔御指南を拝して〕
今回の御指南は、人が十二因縁並びに四大と深い関係がある様子を示され、更に断末魔の苦しみが示された御指南です。
二つの詩を挙げて、前世における自身の煩悩が四大(地大・水大・火大・風大・空大)となり、十二因縁(無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死)の流転となって現れると仰せられています。また四大の関係について、
はじめに生との関係について、進退に骨や肉があるのは地大、身体に水分があるのは水大、身体に体温があるのは火大、身体が動くのは風大であり、この様子はまるで材木が板となり柱となり、集まって家が作られるようなものであるとも例えられています。
次に死との関係について、死(臨終)を迎え身体が冷たくなるのは、火大が去ったためであり、そのままにしておけば腐るのは、地大が去ったためであり、遺体を切っても血が出ないのは、水大が去ったためであり、遺体が動かないのは、風大が去ったためであると仰せられています。そして、臨終の時、断末魔の苦しみを受けるとは、四大によって建てられた家が槌などにより取り壊され、さんざんに離れていくため起こると仰せられています。またこのことを離散の四大とも示されています。
詩中の「解れば本の野原」とは、離散の四大・十二因縁の流転が解ること、そして死後身体は法界に帰ることを指し、また「すはさればこそ」とありますが、これは離散の四大・十二因縁の流転が起こることを指しています。最後に、この流れを覚悟・知っておけば驚く事もなく、驚かなければ「心も乱れない」と結ばれています。
十二因縁の流転で前世の無明の煩悩(善悪)が原因となり、今世に善及び悪の影響が現れると示されています。悪業の因縁が現れれば、様々な悪果との現証が今世に現れ、苦しみの中に生きていかなければなりません。しかし仏教では、悪業も転じる(宿業転換)ことができ、罪障も消滅する(罪障消滅)ことができると説かれています。その方法とは、正しき仏様に縁し、そして仏道修行に励むことにより、それらを叶えられることができるのです。
更には、それを臨終を迎えるその瞬間まで行いきり、また更に、家族・親族にそれを伝え、共に仏道修行に励むことにより、自分も成仏の大願を得ることができ、家族も親族もそれを叶えることができるのです。我々は、、本日拝読した御指南を肝に銘じ、またそれを家族・親族へ伝え、更に一層に正直に仏道主義用に励んでいきましょう!
以 上
0コメント