御経日(毎月1日) 住職法話 『臨終用心抄⑱』

『臨終用心抄⑱』(総本山第二十六世日寛上人が臨終の大事とその心得えを御指南された書)


 臨終を迎えるに当たって心得るべき作法④


【本 文】
一、臨終に一念の瞋恚(しんに)に依って悪趣に入る事。
一覧五(一五)に云く阿耆蛇王(あぎだおう)と云いし人、国王にて善知識にてをはしけるが、臨終の時、看病人扇を顔に落とせしに、瞋恚を生じ、死して大蛇と生れて迦旃延(かせんえん)にあ(値)いて此の由を語ると云々。沙石四(廿六)に引く、私に云く此意(こころ)に依て死後に顔に物をかくるに荒々と掛く可からず、或はかけずとも云々。
一、御書十八(廿二)、又不慮に臨終なんどの近き候はんには、魚鳥なんどと服せられ玉ひても候へ、よみぬべくば経をよみ及び南無妙法蓮華経とも唱へさせ玉ひ候べしと云々。已に不慮の時、之れを許すを以て知んぬ。兼て臨終と見ば之れを服す可からず。尚是れ臭気なり、況(いわ)んや直ちに服せんや。


〔語句解説〕

瞋恚…三毒(貪・瞋・痴)の一つで、怒り憎むこと。

悪趣…苦悩の世界、悪道のこと。

阿耆蛇王(あぎだおう)…釈尊在世のインドの王の一人。

迦旃延(かせんえん)…釈尊の十大弟子の一人で、釈尊の教えを広く論じたことから論議第一と言われた。


〔現代語訳〕

一、臨終の時にわずかな怒りの心を生じたことによって、没後に悪趣に入ることについて。

『大蔵一覧』には「阿耆蛇王という人は国王で、仏法を篤く信じる善知識の人であったが、自身の臨終の時に看病人がうっかり扇を王の顔に落としたところ、怒りの心が生まれ、死後に大蛇となって迦旃延にこのことを語ったという」とある。

『沙石集』に同じ語を引いている。私(日寛)が考えるに、この故事の意味から、死後に御遺体の顔に物(布など)を掛ける時に、乱雑に掛けてはいけない。または必ずしも掛けなくてもよい。


一、『月水御書』に「また、思いがけず臨終が近づいたと感じた時には、忌むべき魚鳥などを食べたとしても、読めるのであれば読経をし、また南無妙法蓮華経と唱えなさい」(御書305㌻趣意)と仰せられている。既に不慮の時に限って、魚鳥を食べたあとの読経・唱題を許していることをもって知る。あらかじめ臨終と判っているのであれば、魚鳥の肉を食べてはならない。なお、魚鳥の肉や五辛は独特の臭気があるものである。先に制したとおり、どうして食べてよいことがあろうか。


〔御指南を拝して〕

 今回は「臨終を迎えるに当たって心得るべき作法④」を拝しました。①~③に続くもので臨終を正しく迎えられるよう、臨終を迎える人への配慮と看病人等が如何に心構えやサポートが示されていました。今回は、「一、臨終を迎えるときに怒り(瞋恚)を起こせば、死した後、悪道に生まれる」旨が示され、臨終を迎える者もまた看病人も瞋恚の心を起こさぬよう気を付ける旨の仰せでした。また「病気や事故など不慮の臨終が近づいた時には、読経し御題目を唱えることが大事」と示され、不慮であるため、本来は魚や鳥などの肉及び五辛の臭気を起こす物は食してはならないと前回に示されていましたが、不慮であるためそのようなものを食した後であっても読経や唱題をすることが許されていると仰せられています。

 我々はいつ臨終を迎えるかは判りません。故に、いつ迎えてもいいように『臨終用心抄』のお示しを心得ておくことが大事です。と同時に、送る側の心得及びサポートも正しく伝え、臨終の時にはそのように行って貰うよう徹底することが、成仏大願を得る方法です。今回のお示しをしっかりと胸に刻み止め、また家族の方等にも伝えておきましょう。

以 上


参考・臨終を迎えるに当たって心得るべき作法①(令和7年5月度『お経日』法話)

㈠臨終の作法は、場所をきれいに清めて御本尊を掛け、香・華・灯明を供えること。

㈡臨終を迎える人の呼吸に合わせて、一緒に題目を遅からず早からず唱え、ゆっくりと鈴(りん)を鳴らし続ける。鈴の音を絶やさず、息が止まるまで鳴らし続けること。

㈢世間の不用な雑談は一切話してはいけない(本人の気が散らぬように)。

㈣病人(臨終を迎える人)の執着になることを、一切話してはいけない(本人が気になるようなことは話さない)。

㈤看病人(付添人)は、腹を立てたことや執着する事柄について話してはいけない(感情的なことや、こだわりを話さない)。

㈥病人から聞かれることがあれば、心を迷わせないように答えるべきである。

㈦病人の心残りになるような物品などを近くに置いてはいけない。

㈧ただ病人に対しては、今世の諸々の出来事は夢のようなものであると忘れ、南無妙法蓮華経と唱えるよう勧めることが大切である。

㈨病人の意に背く人をくれぐれも近づけてはいけない。(自分の心に逆らう者を憎み怒る心(瞋恚・しんに)を起こさせないため)。

総じて、見舞いなどに来る人の一々(いちいち)を病人に知らせるべきではない。


参考・臨終を迎えるに当たって心得るべき作法②(令和7年6月度『お経日』法話)

㈠病人(臨終を迎える人)のそばには、三、四人以上の人がいてはいけない。人が多ければ、何かと騒がしくなって心が乱れることがある。

㈡魚鳥等の肉や五辛を食べたり、酒に酔った人を、いかに親しい間柄だったとしても、家の中に入れてはいけない。天魔がきっかけをつかんで入り込み、心を乱れさせて悪道へ引き入れることになるからである。

㈢家の中で魚を焼き、病人にその匂いが届くようなことがあってはいけない。

㈣臨終の時には喉が渇くので、清浄な和紙を水に浸して、時々少しずつ口に当てて潤わせなさい。(本人から)「誰か水を」と言われた時、ゆるく絞って水分が多い状態で口に当てさせないこと。

㈤臨終が近づいて、ただ今なりという時、御本尊を病人の前に掛け、耳元で「臨終ただ今です。大聖人様がお迎えに来られます。お題目を唱えましょう」と言って、臨終を迎える人の呼吸に合わせて、早からず、遅からず唱題すべきである。既に息絶えたあとも、しばらくの間は故人の耳に唱題の声を入れなさい。なぜなら、臨終を迎えてもその亡骸の奥に色法(五感でとらえた物質的なもの)に対する心法(心の用(はたら)き)が残っていたり、あるいは魂がすぐに去っていかないので、亡骸に唱題の声を聞かせれば、悪趣に生まれることはない。

以上

日蓮正宗 法寿山円照寺(呉市)

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