御経日(毎月1日) 住職法話 『臨終用心抄㉑』
『臨終用心抄㉑』(総本山第二十六世日寛上人が臨終の大事とその心得えを御指南された書)
正法を行ずる者は、たとえ臨終が善相でなくても成仏は疑いない
【本文】
一、法華本門の行者は不善相なれども成仏疑ひ無き事。
安心録(十六)問ふ若(も)し臨終の時、或(あるい)は重病に依り正念を失却し、唱題すること能(あた)はず、空しく死亡せば悪趣(あくしゅ)に堕ちん哉(や)。答ふ一たび妙法を信じて謗法せざる者は、無量億劫(むりょうおっこう)にも悪趣に堕ちず、涅槃経(ねはんぎょう)に云(いわ)く、四衣品(しいほん)の会疏(えしょ)の六(十二)、我れ涅槃の後、若し此(か)くの如き大乗微妙(だいじょうみみょう)の経典を聞くことを得、信敬(しんぎょう)の心を生ずること有らん、当(まさ)に知るべし是れ等は未来世百千億劫に於て悪道に堕ちず已上(いじょう)。廿(にじゅう)巻徳行品(とくぎょうほん)会疏(えしょ)廿(十六)、若し衆生有り、一経を耳に振れば劫後七劫(ごうごしちこう)悪趣に堕(だ)せず。涅槃尚然也。況(いわん)や法華をや。経力甚深なる事、仰(あおい)で信敬し疑惑を生ぜざる者は地獄・餓鬼・畜生に堕せず、十方の仏前に生れん云々。信敬と云ふは五種の中には受持の行に当る、況(いわん)や行を加へて妙法を唱へんをや。御書十一(初)、一期生の中に但だ一返の口唱すら悪道に堕ちず、深く信敬すべし云々。
私に云く、神力品(じんりきほん)に云く我が滅度の後に於て応(ま)さに此の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑ひ有ること無し云々。
〔語句解説〕
・悪趣…三悪趣(さんなくしゅ)ともいい、悪道(三悪道・さんなくどう)と同義で、生前の悪い行いにより地獄・餓鬼・畜生の苦しみの世界に堕ちること。
・悪道…三悪道(さんなくどう)ともいい、悪趣…三悪趣(さんなくしゅ)と同義で、生前の悪い行いにより地獄・餓鬼・畜生の苦しみの世界に堕ちること。
・謗法…法を謗ること。法とは末法においては大聖人様が説かれた妙法蓮華経であり、大聖人様の教え以外をすることを指す。
・信敬…信じ敬(うやま)うこと。当抄に、「信敬とは五種の修行の中で受持の修行に当たる(取意)」とある。
・五種…法華経に説かれる五つの修行方法(受持・読・誦・解説(げせつ)・書写)のこと。
・劫…諸説説かれるが、一説には、一由旬(ゆじゅん)(一由旬=40里。一里・約4㎞×40=160㎞)四方の大石を薄布で百年に一度払い、石が摩滅しても終わらない時間を言い、極めて長い時間の単位。
・一期生(いちごしょう)…生まれてから死ぬまでの一生(一期)のこと。
〔現代語訳〕
一、法華本門文底秘沈の下種仏法を信行する者は、たとえ臨終の際に善い相でなくとも成仏は疑いないことについて。
一音日暁(いちおんにちじょう)(江戸時代の日蓮宗不受不施派)の『法華安心録』には次のようにある。「問う、もし臨終の時に、例えば病状が重いことなどによって正念を遂げず、唱題することができず、むなしく死んでしまうようなことがあれば、悪趣に堕ちるであろうか。答える、ひとたび妙法を信じて謗法がない人は、無量億劫もの長い間、悪趣に堕ちることはない。涅槃経如来性品(にょらいしょうほん)、南本大蔵経の四依品の会疏には次のようにある。『私が涅槃したのちに、もしこのような計り知れないほど勝(すぐ)れた大乗の教えを聞くことを得て、信じ敬う心を生ずることがあるだろう。まさに知るべきである。そのような人は未来世百千億劫もの間に悪道に堕ちることはない』と。また、涅槃経の経光明遍照高貴徳王菩薩品、南本の高貴徳王菩薩品、会疏には『もし、ある衆生がいて、ひとたびもこの涅槃経を耳に聞いたのであれば、七劫の間、悪道に堕ちることはない。涅槃経ですらこのような利益がある。まして法華経はなおさらである。経典の功徳力(経力)が深遠(じんのん)にして勝(すぐ)れていることを仰いで信じなさい。法華経の提婆達多(だいばだった)品には、清らかな心で信敬し、疑いを持たない者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちることはなく、十方の諸仏の御前に生まれるであろう』と説かれている。信敬とは、法華経に説かれる五種の修行の受持・読・誦・解説(げせつ)・書写のなかでは受持の一行に当たる。法華経を信じるだけでも悪道を免れる功徳があるのに、ましてや受持行に加えて題目を唱えるものであるから、なおさらであろう。『法華題目抄』に『一期の人生のなかで、ただ一遍の題目を唱えることですら悪道に堕ちないのである。故に、深く信じ受持すべきである』(御書353取意)とある。
私(日寛上人)が言うには、法華経の神力品に「我が滅度の後には必ずこの法華経を受持しなさい。その人が必ず仏道修行を成就することは疑いのないことである」(法華経517取意)とある。
〔御指南を拝して〕
今回は「正法を行ずる者は、たとえ臨終が善相でなくても成仏は疑いない」を拝しました。
今回は日蓮正宗の信心をしていても死相が善くなかったとしても、成仏は間違いないと明かされています。
日寛上人は、日蓮宗不受不施派の一音日暁の『法華安心録』を引かれ、「信心していた者でも重病となり、(信仰の)志半ばで死んでしまったら成仏せず、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣(三悪道)に堕ちてしまうのか?」と問いを引かれ、「信心をし、謗法を犯さなかった人は無量億劫という長い間、悪趣に堕ちることはない」と答えを引いています。この答えで大事なことは謗法を犯さなかった人ということであり、もし謗法を犯した人は悪趣に堕ちる可能性があるということです。日寛上人は、『法華安心禄』を引き続き引用し「涅槃経ですら信敬すれば悪道に堕ちない。まして法華経は尚更である」と引かれています。更に『法華安心禄』の「法華経の題目を唱えているのであれば、悪道に堕ちるはずはない」と引かれています。日寛上人は以上の引用を受けられ法華経『如来神力品第二十一』の「末法時代の現代には、必ず法華経を受持しなさい。受持する者は必ず仏道修行を成就するのである」と引かれ、末法時代に法華経を受持する者は、仮に死相が善くなかったとしても、必ず成仏することは疑いないと明かされています。
日寛上人が引用した『法華安心禄』の著者である一音日暁とは、日蓮宗の不受不施派の一派の僧侶であり、「謗法を犯さない者は成仏できる」と記しても、日暁自身が大聖人様の正法から外れた宗派に属した以上、本末転倒の話です。しかし我々日蓮正宗の僧俗は、唯一正統の宗派であり、正直に仏道修行を続け臨終を迎えたならば、必ず成仏することが叶えられます。
しかし正直に励む者には、不正直な者以上の強力な魔の妨害が日々訪れ、正直者を不正直者へと変えようと躍起になっておそってきます。更には、成仏を得させまいと、なんとか謗法を犯させようとしていきます。我々は「魔は必ず起こる」「正直に励む者こそ、強力な魔の邪魔がおこる」と心得て仏道修行に励むことで、魔に負けない、正直者のままに仏道修行に励むことができることを今一度知っておきましょう。
我々はいつ臨終の時を迎えるかは判りません。故に、いつ迎えてもいいように『臨終用心抄』のお示しを心得ておくことが大事です。と同時に、送る側の心得及びサポートも正しく伝え、臨終の時にはそのように行って貰うよう徹底することが、成仏大願を得る方法です。今回のお示しをしっかりと胸に刻み止め、また家族の方にも伝えておきましょう。
以 上
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