御経日(毎月1日) 住職法話 『臨終用心抄㉔』

『臨終用心抄㉔』

(総本山第二十六世日寛上人が臨終の大事とその心得えを御指南された書)


令和8年3月度御経日  (令和8年3月1日(日))


妙法の三力① 仏力で堕地獄を免れる

【本文】

一、妙法三力の事。仏力・法力・信力なり。
疏(しょ)の四(七十二)に云わく「那先経(なせんきょう)に云わく、人死に臨んで南無仏と称(とな)うれば泥犁(ないり)を免(まぬが)るることを得るとは何(いかん)。人の一石を持(もっ)して水上(すいじょう)に置けば、石必ず没すること疑い無し。若し能(よ)く百の石子(しゃくし)持(もつ)して船の上に置けば、必ず没せざるが如し。若(も)し直爾(ちょくじ)に死するは必ず泥犁(ないり)に入る。石を水に置くが如し。若し死に臨んで南無仏と称すれば、仏力の故に泥犁(ないり)に入らざらしむ。船の力の故に石をして没せざらしむが如し」(文)。但し種脱(しゅだつ)云々。
御書の五(二十九)に云わく「提婆達多(だいばだった)は世尊の御身に血を出だししかども、臨終の時には南無と唱へたりき。仏とだに申したりしかば地獄に堕つべからざりしを、業(ごう)深くして但南無とのみ唱へて仏とはいわず。今日本国の高僧等も南無日蓮聖人と唱えんとすとも、南無計りにてやあらんずらん。不便不便」〔八七八〕文。此の文能(よ)く思え、是れ末法の仏力なり。


【語句解説】

疏(しょ)・・・中国天台宗の祖・天台大師の『法華文句』のことで、法華経の文々句々を講述した書。

那先経(なせんきょう)・・・那先比丘経のことで、インド北部を支配していたミリンダ王とナーガサーナ(僧侶)との対話の記録の書。

泥犁(ないり)・・・地獄界のこと。

直爾(ちょくじ)・・・じかに、直接、そのまま、との意。

提婆達多(だいばだっ・・・釈尊の従兄であり、釈尊の弟子。のちに釈尊に背き、釈尊の教団を分断(破和合僧)させようとしたり、釈尊を殺害しようとした(出仏身血・しゅつぶつしんけつ)が失敗し、生身のまま地獄に堕ちた。のちに法華経において記別が与えられた(提婆達多品第十二)。

世尊(せそん)・・・仏の別称。ここでは釈尊のこと。


【現代語訳】

一、妙法の三力のこと。これは仏力・法力・信力である。

仏力

 『法華文句(ほっけもんぐ)』に次のように引かれている。「那先比丘経(なせんびくきょう)に、人が死に臨んで『南無仏』と唱えれば、堕地獄(泥犁)を免れることを得るとはどうであろうか。答える、例えば一つの石を水の上に載せると、必ずその石は浮かばずに沈んでいくことは疑いない。もし百の石であっても、船に載せれば水に沈まないようなものである。もし、何もせずに死ぬならば必ず地獄に堕ちる。これは石を水に載せるようなものである。もし臨終の際に『南無仏』と唱えれば仏力によって地獄に堕ちることはない。これは船の力の故に、石が水中に沈まないようなものである」(文句会本上 767取意)と。

 ただし、大聖人の種脱の法門の異なりを弁えるべきである。

 『撰時抄』に「提婆達多は釈尊の御身より血を出だせたが、臨終の際に『南無』と唱えた。しかし生身のままで地獄に堕ちたのである。南無仏の『仏』まで唱えていれば堕地獄は免れたであろうが、悪業が深いために、ただ『南無』のみ唱えて『仏』とは言わなかった。今日の日本国の高僧等も『南無日蓮聖人』と唱えるべきところを『南無』しか唱えないことは、なんとも不憫なことである」(御書867取意)と、この文をよく拝しなさい。これが末法における仏力である。


〔御指南を拝して〕

 今回は「妙法の三力① 仏力で堕地獄を免れる」を拝し、妙法蓮華経の三力の内の仏力の功徳が仰せられていました。誰であろうとも臨終の際に南無妙法蓮華経と唱えられれば、成仏への因が開かれると教えられています。しかし、釈尊を殺害しようとした大悪人たる提婆達多のように、『南無仏』と唱えなかったため生身のままに地獄へ堕ちてしまったのです。(しかし提婆達多は仏の御慈悲により法華経に至り成仏の記別を受けています)

 我々は臨終がいつ如何なる時に訪れるかが判りません。その時が来たならば御本尊様の仏力を信じ、一心にお題目を唱えることを、けっして忘れないように平生の今を過ごし、同時に家族・親族の方にもこの大事を伝えておきましょう。

以 上

日蓮正宗 法寿山円照寺(呉市)

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