令和8年2月度 御報恩御講 拝読御書
『弁殿尼御前御書(べんどのあまごぜんごしょ)』
文永(ぶんねい)10(1273)年9月19日 聖寿52歳
第六天(だいろくてん)の魔王、十軍(じゅうぐん)のいくさをを(起)こして、法華経の行者と生死海(しょうじかい)の海中にして、同居穢土(どうごえど)をとられじ、うば(奪)はんとあらそう。日蓮其(そ)の身にあひあ(当)たりて、大兵(だいひょう)をを(起)こして二十余年なり。日蓮一度もしりぞ(退)く心なし。しかりといえども弟子等・檀那(だんな)等の中に臆病のもの、大体或はを(堕)ち、或は退転の心あり。尼ごぜんの一文不通(いちもんふつう)の小心に、いまゝでしりぞ(退)かせ給はぬ事申すばかりなし。
(御書686㌻ 8〜11行目)
【背景・概要】
本抄は文永10(1273)年9月19日、日蓮大聖人様御年52歳の時に、佐渡の一谷(いちのさわ)から六老僧のひとり・弁阿闍梨(べんあじゃり)日昭(にっしょう・弁殿)と尼御前(鎌倉在住の篤信(とくしん)の信徒で、日昭の母または姉、あるいは桟敷(さじき)に住む妙一尼(みょういちに)と同人とも伝えられています。
また「一文不通(いちもんふつう)」としたためられているように、一文字も文字が読めない尼だったようですが、強く純粋な信心を持っていたとも伝えられています。)に与えられた御書です。本抄では、大聖人様の御振舞の意義や、その御境界(ごきょうがい)を信じ切ることもできずに退転(たいてん)していった弟子・信徒を哀(あわ)れまれると同時に、文字が読めずとも純粋に信仰を貫かれている尼御前に対し、その信心を称賛され、さらに今回、佐渡の大聖人様の元へ使いを遣(つか)わした志を、釈尊をはじめ諸仏も御照覧(ごしょうらん)のことであろうと、その信心姿勢を賞賛されています。
【語句の解説】
・ 第六天の魔王…欲界(よっかい)の六欲天(ろくよくてん)の頂上・他化自在天(けたじざいてん)に住む天王のこと。望む物は何でも奪い取り、思うままに楽しむ境界にあるとされる。仏道修行者を妨げるため魔王と呼ばれ、人の命や功徳を奪うので奪命(だつめい)・奪功徳者(だつくどくしゃ)ともいう。
・ 十軍…仏道を行ずる人を悩乱する煩悩を、魔の軍勢として十種に分類したもの。『大智度論』(大正蔵25-169)に説かれる十種①欲望。②憂愁(憂い悲しむこと)。③飢渴(きかつ=飢えと渇き)。④渇愛(かつあい=五欲への愛着)。⑤睡眠。⑥怖(おそれ)。⑦疑悔(ぎかい=疑いや後悔)。⑧瞋恚(しんに=いかり)。⑨利養虚称(りようきょしょう=名利名聞(みょうりみょうもん)に執われること)。⑩自高蔑人(じこうべつじん=思い上がって人を侮ること)。
・ 法華経の行者…法華経に説かれるままに修行する人。諸難に襲われても、恐れることなく、退転することなく最後まで行う人。末法時代にあっては日蓮大聖人様を指す。
・ 生死海(しょうじかい)…生死の苦しみが深く限りないことを海に譬(たと)えた言葉。
・ 同居穢土(どうごえど)…聖人と六道(ろくどう=地獄・餓鬼・畜生・人・天)の凡夫が同居する穢(けが)れた土のことで、娑婆世界(しゃばせかい)をいう。
・ 大兵…「だいひょう」と読み、選り抜きの兵、精兵のこと。「たいへい」と読むときは、大軍の意となる。
〔通 釈〕
第六天の魔王は、十種の魔軍を起こして、法華経の行者と生死海の海中にあって、凡聖同居(ぼんしょうどうご)の穢土(えど)をとられまい、奪おうと争っている。日蓮は法華経の行者として、大兵を起こして戦うこと二十余年である。日蓮は一度も退く心はない。しかし弟子等・檀那等の中で臆病の者は、大方ある者は退き、ある者は退転の心がある。尼御前が一文不通の心弱い身でありながら、今まで退転しなかったことは、言い尽くせないほど立派である。
【御妙判を拝して】
拝読の御妙判では、①信心をする者には第六天の魔王が邪魔をする。②日蓮正宗の信心は臆病であっては駄目。が御教示されています。大聖人様は「此の法門を申すには必ず魔出来(しゅったい)すべし」(兄弟抄 986㌻)と御指南されている通り、信心をする者には、その信心を邪魔しようとする魔が自分自身または周りから起こります。
御妙判では「十種の魔軍」と示されています。これらはすべて第六天の魔王が起こしたものです。
大聖人様は「魔競はずば正法と知るべからず」(兄弟抄 986㌻)とも御指南あって、魔が邪魔をするのは、その信心が正法だからであると教えられています。
時に魔は強力な場合もあり、竜口(たつのくち)御法難等を見た当時の大聖人様の弟子・信徒の多くが信心を退転してしまいました。しかし見方を変えれば、それ程、大聖人様の信心が正法である教えとの証明なのです。大聖人様は「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」(教行証御書 1109㌻)と御指南の如く、如何なる魔の邪魔にも臆病にならない信心こそ日蓮大聖人様の信心であり、願いが叶えられる信心と教えられています。
御法主日如上人猊下は「所詮、いかなる魔も仏様には絶対に勝てないのであります」(大日蓮・令和4年6月号)と、どんな強力な魔であっても仏様には絶対に勝つことはできないと仰せられています。そのために日如上人は「大御本尊様への絶対信をもって、いよいよ信心強盛に唱題に励むことが肝要」(同)と、仏様である大御本尊様を絶対の信心・けっして疑わない信心で信心強盛に唱題に励むことにより、魔に負けない信心を持つことができると仰せられています。また日如上人は「魔が競い起きた時こそ、信心決定(けつじょう)の絶好の機会と捉え」(同)とも御指南されて、魔が信心の邪魔を起こしてきた時が、信心を奮起できる、信心を見直すことができる、絶好の機会と捉え励行すべきであると仰せられています。
さてこのような信心また仏道修行が日蓮正宗の信心・仏道修行ですが、御妙判を賜った弁殿尼御前は一文不通(いちもんふつう)=一文字も読むことができない女性だったのです。しかし文字は読めなくとも、弁殿=日昭から大聖人様の教えを聞き、篤信もって信心に励まれ、退転しなかったことが「尼ごぜんの一文不通の小心に、いままでしりぞかせ給はぬ」としたためられており、同時に大聖人様より賞賛が贈られています。
兎角、当時は男尊女卑(だんそんじょひ)であり、且つ大聖人様の信心を貫くは非常に難しかったことは想像に難くありません。日蓮正宗の信心は力(腕力)が強い弱いは全く関係がありません。老若男女関係なく信心が強いことが大事です。拝読御妙判の通り、改めて①魔に負けない信心。②大御本尊様への絶対の信心。そして③臨終を迎えるその時まで継続して続ける信心。をそれぞれが確認し、精一杯信心に励行していきましょう。
以上
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