令和7年度 興師会 住職法話(令和7年2月7日)
『日興上人(寛元4(1246)年3月8日~正慶2(1333)年2月7日)』について
一、御誕生
日興上人は、寛元4(1246)年3月8日、甲斐国大井荘鰍沢(かじかざわ・現在の山梨県鰍沢町)に御誕生されました。
しかし父・大井橘六が若くして亡くなったため、母・妙福の実家である駿河国西山(現在の静岡県富士郡芝川町)の由比家に移り、祖父・由比入道によって育てられたと言われています。
二、修学と出家得度・常随給仕
日興上人は、修学の年齢になると蒲原荘内にあった四十九院で学ばれたと言われています。そして十三歳の時、四十九院にほど近い岩本実相寺で一切経を閲覧するため入山していた日蓮大聖人様にお会いし、出家得度し伯耆公日興(のちに白蓮阿闍梨)と名を賜ったと言われています。
その後、大聖人様が(1)弘長元(1261)年5月の伊豆御配流、(2)文永8(1271)年9月の竜口御法難、(3)佐渡御配流、等々、常に大聖人様に随い御給仕申し上げておられます。
大聖人様は度々国家に対し国家諌暁為されましたが受け入れられることがなかったため、中国の故事の「三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれ」(『報恩抄』御書1030㌻)にならい、文永11(1274)年5月頃、身延へと御入山されました。この身延の地を選ばれた大きな理由として考えられることは、身延の地の地頭・波木井実長(はぎり さねなが)が日興上人の折伏によって入信した者であったことが大きいと考えられています。
三、弘教と熱原法難
大聖人様身延御入山後、日興上人は有縁の地である甲斐・駿河地方の弘教を展開され、その結果、四十九院・実相寺・滝泉寺などから多くの僧侶や農民が大聖人様への帰依信心をするに至りました。しかしこの弘教が縁となり、大聖人様に帰依していく者達が増えていくことに危機感を感じた四十九院・実相寺らは、縁ある鎌倉幕府に讒言(ざんげん)を行い、結果、神四郎・弥五郎・弥六郎らが殉職し、多くの法華講衆が法難を受けた、あの熱原法難となったのです。
しかし、法難に遭う法華講衆は、大聖人様の心温まる御指南、日興上人の御指導を受け、死身弘法(ししんぐほう)・不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の信心を最後まで貫き通し、誰一人大聖人様への信心を止める者はいなかったのです。
四、大聖人様御入滅・身延離山
弘安5(1282)年9月、大聖人様は一切の御法を日興上人へ御付属され、翌月10月13日に御入滅あそばされます。大聖人様御入滅後は、日興上人が第二祖として身延の地で弘教されましたが、度重なる地頭・波木井実長の①釈迦一体仏造立、②神社参詣、③福士の塔供養、④九品念仏の道場建立といった謗法行為により、大聖人様が「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事 聖典555㌻)との御指南より、謗法の地と化した身延の地には大聖人様の御魂が住まわれるところでないと判断され、身延の離山を決意されたのです。
この時の日興上人の御心境を「身延沢を罷(まか)り出(い)で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候へども、打ち還し案じ候へば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進(まい)らせて、世に立て候わん事こそ詮(せん)にて候へ。さりとも思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当つて覚え候へば、本意忘るる事無くて候」(原殿御返事 聖典560㌻)と認(したた)められています。
正応2(1289)年春、日興上人は。本門戒壇の大御本尊様をはじめ、大聖人様の御霊骨・御書などの重宝を奉持して日目上人ら弟子とともに身延の地を御離山されました。その後、河合の外祖父・由比入道の館にしばらく逗留されたあと、富士上野の地頭・南条時光殿の招請によりその館に入られました。
五、大石寺創建・日目上人へ御内付
大聖人様が「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」(三大秘法稟承事1595㌻)「富士山に本門寺の戒壇を建立せさるべきなり」(日蓮一期弘法付属書1675)との御教示より、南条時光殿の地所より大石が原を選ばれ、正応3(1290)年10月12日、大石寺(おおいしでら)を創建せられたのです。
また時同じくして、日目上人ら弟子方も自身の住まい(坊)を創建されています。これらの坊が現在の塔中(たっちゅう)坊の原型になっています。
大石寺を創建された翌日の10月13日には、弟子の中から日目上人を選ばれ、大聖人様よりお受けした御法を御付属され、その示しとして譲座御本尊を授与されています。この譲座御本尊とは、大石寺客殿にご安置される御本尊様であります。
六、重須談所(おもすだんじょ)創建・御書収集
永仁6(1298)年2月、日興上人は重須(現在の静岡県富士宮市北山)の地頭・石河孫三郎能忠の請いにより重須へ移られています。その理由は弟子の育成であったと言われています。
重須へ移られた日興上人は、学問所である談所を創建され、大聖人様の御法門等を正しく弟子へ伝えられたと言われています。
また日興上人は、大聖人様がお認(したた)めになった御書の収集にも努められています。この収集があったからこそ、今我々が御書を通し、大聖人様の御教示を拝することができているのです。
七、日目上人への御付属・御入滅
元弘元(1331)年10月、日蓮大聖人様の第50回遠忌を奉修され、翌11月には日目上人に「最善上奏の仁(ひと) 新田卿阿闍梨(にいたきょうあじゃり)日目に之を授与す 一が中の一弟子なり」としたためられた御本尊様(御手続御本尊)を授与され、同月10日には、本門戒壇の大御本尊様を御付属され、日目上人を一閻浮提の座主(第三祖)と定められています。
元弘3(正慶2・1333)年正月13日に門下一同に対し二十六箇条の『遺誡置文(ゆいかいおきもん)』を大聖人様の御法門・信条・化儀等を示されています。
そして同年2月7日、御年八十八歳を御一期とされ御入滅あそばされたのです。
以上
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