令和7年1月度 御報恩御講 拝読御書
『四条金吾殿御返事(しじょうきんごどのごへんじ)』
文永(ぶんのう)9(1272)年5月2日 聖寿51歳
『貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ。是(これ)豈(あに)流通(るつう)にあらずや。法華経の信心をとをし給へ。火をきるにやす(休)みぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。』
(御書五九九㌻二行目~四行目)
【通釈】
貴方もまた、日蓮に従って、法華経の行者として多くの人に教えを語り伝えている。これこそ法華流通の相ではないか。法華経の信心を貫き通していきなさい。火をつけるのに、途中で休んでしまったならば火を得ることは出来ない。強盛な大信力を出し、法華宗の四条金吾、四条金吾と、鎌倉中の人々、はては日本国のすべての人の口から謳われるようになりなさい。
【拝読のポイント】
〇 法華経の信心をとをし給へ
本抄述作の時期は、大聖人が佐渡配流の身となり門下一同に動揺が走る中、北条家の内紛が起こり(二月騒動)、『立正安国論』に予証された後災の一つである自界叛逆難(じかいほんぎゃくのなん)が現実となった直後でした。この動乱期にあっても四条金吾は、遠く佐渡の大聖人のもとを訪れ御供養の品々をお届けし、外護(げご)の任を果たされています。また、鎌倉にあっては門下の団結と妙法(みょうほう)弘通(ぐづう)に尽力していたことが、御書から拝せられます。
大聖人の佐渡配流という法難の余波は弟子檀那にも及び、信心を持(たも)ち続けることすら命懸けの状態でした。
そのような折、大聖人は拝読の御文に「法華経の信心をとをし給へ」と仰せられ、いかなる難に遭っても信心を貫き通すこと、また「貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ」と仰せのように、日蓮に従って法を弘(ひろ)めることの大事を教示されています。つまり不退の信心で折伏を実践するところに、大聖人の御意に適(かな)った仏道修行があるのです。
〇 折伏実践の功徳は現証として顕(あら)われる
大聖人が佐渡配流を赦免(しゃめん)されると、金吾は意を決して積年の大願であった主君・江間(えま)氏への折伏を敢行します。すると、同僚たちの怨嫉(おんしつ)による誹謗や、それを真に受けた主君の命による領地替え、謹慎など、三障四魔(さんしょうしま)の働きによって数々の試練が降りかかりました。しかし金吾は、妻・日眼女(にちげんにょ)と力を合わせて信心を貫き、あらゆる難を耐え忍びました。
その結果、数年後には主君の信頼も回復し、没収されていた領地も返還・加増されたのです。そして建治四(1278)年1月には、出仕の列に加えられ、「お伴の侍が二十四、五人いるなかで(中略)背の高さといい、顔立ちといい、魂といい、乗る馬から下人に至るまで第一であり、中務左衛門尉(金吾)は立派な男であると、鎌倉中の子供達が辻々で話している」(四条金吾殿御書・御書1197趣意)とあるように、本抄で「四条金吾・四条金吾と(中略)日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」と大聖人が策励されたとおりの姿を示すことができたのです。
たとえ多くの苦難が押し寄せたとしても、御本尊への絶対信をもって不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)の姿勢を貫くならば、私達も最善の果報を得ることができます。今こそ、何としても折伏行に邁進していこうではありませんか。
〇 日如上人御指南
折伏は御本仏宗祖日蓮大聖人様からの御遺命(ごゆいめい)であります。よって、私どもは何を差し置いても、大聖人様の御遺命のままに破邪顕正(はじゃけんしょう)の折伏を行じて、一人でも多くの人々の幸せを願い、悔いなく戦いきっていくことが今、最も肝要なのであります。
(大日蓮・令和六年十一月号)
〇 まとめ
令和七年「活動充実の年」の初頭にあたり、本年の折伏誓願を成就するため、全国・全世界で一斉に一月唱題行が行われています。混迷深まる世の中を仏国土へと変えていくためにも、今年は昨年以上に活動を充実させ、唱題につぐ唱題、真剣なる祈り、そして勇気ある行動をもって折伏行に徹し、本年こそ折伏目標を達成してまいりましょう。
以上
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